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第五話 恐ろしい御堂直之との縁談

last update Tanggal publikasi: 2026-08-15 22:57:37

 自室の重い扉を閉めた瞬間、瑠理子の口から浅く震える息が漏れ出た。 膝が笑いそうになるのを必死で堪え、すがりつくようにして書斎机へ向かう。椅子を引き、革張りの座面に腰を下ろすと、引き出しから上質なレターペーパーを一枚引き抜いて机上に広げた。 感情に身を任せて取り乱してはならない。 先ほど、父の前で淳を家から追い出そうと試みたが、あっけなく退けられてしまった。あの男を今すぐこの屋敷から排除することが不可能なのだとしたら――感傷に浸っている暇など一秒もない。残された別の手立てを、今すぐ冷徹に組み立てる必要があった。

 すがるように握りしめたペンの先から、インクが紙の繊維へと滲んでいく。 瑠理子は一番上の段に、震える手で三つの言葉を書き連ねた。

『父』 『母』 『海原グループ』

 絶対に奪われてはならないもの。私の命に代えても守り抜くべきすべて。 そして、そのすぐ下の余白に、憎悪を込めてその名を刻みつける。

『橘 淳』

 少し迷ってから、その隣にもうひとつ名前を書いた。

『海原二郎』

 二郎のことを考えると、やはり胸がざわついた。

 前世で叔父に裏切られた記憶などない。最後まで、自分たちを助けようとしてくれていたはずだ。

 それなのに、今朝の会話が頭から離れなかった。

 橘義昭が残したという資料。

 それを今、会社で管理している二郎。

 考えすぎかもしれないが、今度の人生では、疑うべきものは全部疑う。何も知らなかったせいで、一度すべてを失ったのだから。

 瑠理子は紙の端へ書き加えた。

『橘義昭が死ぬ前に、何を調べていたのか?』

 これを調査しよう。そして淳を海原グループへ近づけない。

 それにはどうすればいいのか――

 記憶の糸を手繰る。

 今後淳は生活費を稼ぐために大学へ通いながら、父の推薦によって海原グループの本社でアシスタント・アルバイトとして雇われる。

 そこで類稀なる才覚を現して実績を積み上げ、わずか二年後には本社の経営企画へ異動。

 三年後には社長室の側近として、父の右腕のポジションにまで上り詰めた。

 そして――世間知らずだった瑠理子と恋人関係になった頃には、淳はすでに会長から揺るぎない信頼を勝ち取り、社内の重要機密のすべてを掌握していた。

 これを阻止するための答えは明白。 その出世ルートを根元から断ち切ればいい。

 淳を海原グループに一歩たりとも足を踏み入れさせないこと。

 本社への入社機会を奪い、経営情報からも遠ざけ、自社株の売買に関わる権限を持たせない。

 だがそれだけでうまくいくのか?

 前世の自分は、あまりにも無知だった。

 優しい父に守られ、頼もしい淳に甘やかされ、「経営なんて難しくて分からない」と微笑んで現実から目を背け続けたのだ。 その身勝手な怠慢のツケが、あの破滅を呼んだ。

 それを覆すには、もっと別の方法を――

 ふと視線を滑らせると、机の隅の書類立てに差し込まれた一通の封筒が視界をかすめた。

 豪奢な厚手の紙に、重厚な金色の箔押し。

 脳裏に強烈な既視感が走り、瑠理子は吸い寄せられるようにその封筒を手に取った。 表に記された流麗な文字。

『御堂ホールディングス』

 思わず息を呑む。 そうだ――あまりの激動に、今の今まで完全に忘れていた。

 十八歳の春。 父が瑠理子の将来を案じて縁談を持ってきたことがあった。 相手は国内屈指の巨大財閥・御堂ホールディングスの正統な後継者。 御堂 直之(みどう なおゆき)。 当時二十九歳。

 十一歳も年上だったため、前世の瑠理子は写真すらまともに見ずに断った。

『知らない人と政略結婚なんて絶対に嫌』

『私は好きな人と結婚するの』

 そう言って数年後、淳を選んだ。瑠理子はその時すでに、淳に恋をしていたから――

 御堂家の絶大な力と庇護。そして、政略結婚という冷徹な盾。

 ――これ以上、橘淳の復讐計画を狂わせる一手があるだろうか?

 瑠理子は封筒を開いた。中には一枚の写真が入っている。

 端正な顔に隙のないスーツ姿。

 鋭く、感情の読めない目。

 その下に簡単な経歴が記されていた。

 御堂直之・二十九歳。

 御堂ホールディングス専務取締役、次期社長候補筆頭。

 そこまで読んだところで、控えめなノックの音がした。

「失礼いたします」

 母付きの使用人が入ってくる。封筒を見るなり、目を丸くした。「まあ……御堂様のお話ですか」

「知っているの?」

「もちろんです。御堂直之様といえば、財界では有名なお方ですから」

「どんなお方なの?」

 使用人は少し声を潜めた。

「お仕事は非常におできになるそうですけれど……女性にはまったく興味がおありにならないとか」

「女性に?」

「これまで持ち込まれた縁談を、すべてお断りになったそうです。御堂家が困り果てていると聞きました」

 瑠理子は写真を見る。

「全部?」

「はい。女性にはまったく興味がおありにならないようで、持ち込まれた縁談をすべて断っているらしく、一生結婚するつもりがないとか、いろいろ噂されています」

 そんな男がなぜ海原家へ縁談を持ち掛けたのだろう?

 前世では、気にも留めなかった男。

 瑠理子はしばらく写真を見つめた。

 知らない未来を選べば、少なくとも淳を選んだ未来より悪くなることなどないだろう。

「お父様に伝えて!」

「はい?」

「御堂様とお会いします」

 使用人が目を見開く。

「この縁談、お受けする方向で考えたいと」

 使用人が驚いたまま瑠理子を見つめている。

 前世では、愛する人と結婚したかった。

 だから直之を断り、淳を選んだ。

 ならば今度は、淳を選ばない。

 それだけでも未来はきっと変えられる。

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