Masuk自室の重い扉を閉めた瞬間、瑠理子の口から浅く震える息が漏れ出た。 膝が笑いそうになるのを必死で堪え、すがりつくようにして書斎机へ向かう。椅子を引き、革張りの座面に腰を下ろすと、引き出しから上質なレターペーパーを一枚引き抜いて机上に広げた。 感情に身を任せて取り乱してはならない。 先ほど、父の前で淳を家から追い出そうと試みたが、あっけなく退けられてしまった。あの男を今すぐこの屋敷から排除することが不可能なのだとしたら――感傷に浸っている暇など一秒もない。残された別の手立てを、今すぐ冷徹に組み立てる必要があった。
すがるように握りしめたペンの先から、インクが紙の繊維へと滲んでいく。 瑠理子は一番上の段に、震える手で三つの言葉を書き連ねた。
『父』 『母』 『海原グループ』
絶対に奪われてはならないもの。私の命に代えても守り抜くべきすべて。 そして、そのすぐ下の余白に、憎悪を込めてその名を刻みつける。
『橘 淳』
少し迷ってから、その隣にもうひとつ名前を書いた。
『海原二郎』
二郎のことを考えると、やはり胸がざわついた。
前世で叔父に裏切られた記憶などない。最後まで、自分たちを助けようとしてくれていたはずだ。
それなのに、今朝の会話が頭から離れなかった。
橘義昭が残したという資料。 それを今、会社で管理している二郎。 考えすぎかもしれないが、今度の人生では、疑うべきものは全部疑う。何も知らなかったせいで、一度すべてを失ったのだから。瑠理子は紙の端へ書き加えた。
『橘義昭が死ぬ前に、何を調べていたのか?』 これを調査しよう。そして淳を海原グループへ近づけない。 それにはどうすればいいのか――記憶の糸を手繰る。
今後淳は生活費を稼ぐために大学へ通いながら、父の推薦によって海原グループの本社でアシスタント・アルバイトとして雇われる。 そこで類稀なる才覚を現して実績を積み上げ、わずか二年後には本社の経営企画へ異動。 三年後には社長室の側近として、父の右腕のポジションにまで上り詰めた。 そして――世間知らずだった瑠理子と恋人関係になった頃には、淳はすでに会長から揺るぎない信頼を勝ち取り、社内の重要機密のすべてを掌握していた。これを阻止するための答えは明白。 その出世ルートを根元から断ち切ればいい。
淳を海原グループに一歩たりとも足を踏み入れさせないこと。
本社への入社機会を奪い、経営情報からも遠ざけ、自社株の売買に関わる権限を持たせない。だがそれだけでうまくいくのか?
前世の自分は、あまりにも無知だった。
優しい父に守られ、頼もしい淳に甘やかされ、「経営なんて難しくて分からない」と微笑んで現実から目を背け続けたのだ。 その身勝手な怠慢のツケが、あの破滅を呼んだ。 それを覆すには、もっと別の方法を――ふと視線を滑らせると、机の隅の書類立てに差し込まれた一通の封筒が視界をかすめた。
豪奢な厚手の紙に、重厚な金色の箔押し。
脳裏に強烈な既視感が走り、瑠理子は吸い寄せられるようにその封筒を手に取った。 表に記された流麗な文字。『御堂ホールディングス』
思わず息を呑む。 そうだ――あまりの激動に、今の今まで完全に忘れていた。
十八歳の春。 父が瑠理子の将来を案じて縁談を持ってきたことがあった。 相手は国内屈指の巨大財閥・御堂ホールディングスの正統な後継者。 御堂 直之(みどう なおゆき)。 当時二十九歳。
十一歳も年上だったため、前世の瑠理子は写真すらまともに見ずに断った。
『知らない人と政略結婚なんて絶対に嫌』
『私は好きな人と結婚するの』
そう言って数年後、淳を選んだ。瑠理子はその時すでに、淳に恋をしていたから――
御堂家の絶大な力と庇護。そして、政略結婚という冷徹な盾。
――これ以上、橘淳の復讐計画を狂わせる一手があるだろうか?瑠理子は封筒を開いた。中には一枚の写真が入っている。
端正な顔に隙のないスーツ姿。
鋭く、感情の読めない目。
その下に簡単な経歴が記されていた。
御堂直之・二十九歳。御堂ホールディングス専務取締役、次期社長候補筆頭。
そこまで読んだところで、控えめなノックの音がした。
「失礼いたします」母付きの使用人が入ってくる。封筒を見るなり、目を丸くした。「まあ……御堂様のお話ですか」
「知っているの?」
「もちろんです。御堂直之様といえば、財界では有名なお方ですから」
「どんなお方なの?」
使用人は少し声を潜めた。
「お仕事は非常におできになるそうですけれど……女性にはまったく興味がおありにならないとか」
「女性に?」
「これまで持ち込まれた縁談を、すべてお断りになったそうです。御堂家が困り果てていると聞きました」
瑠理子は写真を見る。
「全部?」「はい。女性にはまったく興味がおありにならないようで、持ち込まれた縁談をすべて断っているらしく、一生結婚するつもりがないとか、いろいろ噂されています」
そんな男がなぜ海原家へ縁談を持ち掛けたのだろう? 前世では、気にも留めなかった男。 瑠理子はしばらく写真を見つめた。 知らない未来を選べば、少なくとも淳を選んだ未来より悪くなることなどないだろう。「お父様に伝えて!」
「はい?」
「御堂様とお会いします」
使用人が目を見開く。 「この縁談、お受けする方向で考えたいと」『今日のパーティーにも、自分は呼んでいないって』 まだ、百合絵は勝手に捏造した言葉を続けている。聞くに堪えなかった。「僕が呼んだ!!」『あなたが勝手に来たことで、御堂家にも迷惑がかかっているって』「言ってない!!」『もう関わりたくないって』「百合絵ええええ!!」 直之の怒声が車内を揺らした。 運転手がびくりとする。 それでも直之は止まらない。拳で座席を殴る。「一言もそんなこと言ってない!!」 直之の思いは届かない。そして瑠理子は百合絵の放った言葉に傷つき、動けなかった。『……嘘……そんな……』 百合絵が困ったように微笑んだ。『残念だけど、これが直之さんの本当の気持ちよ』「違う!!」『だって』 百合絵は自分のスマートフォンを見せた。『今、本人から電話があったでしょう?』「……っ!」 最悪だった。 先ほどまでは、百合絵の言葉だけだった。 瑠理子も、まだ疑うことができた。 でも、今は違う。 直之から百合絵へ電話がかかってきた。 その事実だけは嘘ではない。 自分が招いてしまった、最悪の結果。 しかも百合絵は、一方通行とはいえ、直之と話していた。 それを、瑠理子もその場にいる全員も見ている。
『……?』 百合絵がバッグからスマートフォンを取り出す。画面を見た瞬間、表情が変わった。『直之さん……』「出ろ!」 直之はスマートフォンを握り締めた。「出てくれ!」 百合絵がちらりと瑠理子を見る。 そして、周囲の令嬢たちにも見えるように、わざと画面を傾けた。『えっ、直之さんから?』『こんなタイミングで?』『やっぱり百合絵さんに連絡するのね』 ざわざわと声が上がる。 瑠理子も驚いた顔でスマートフォンを見つめていた。「百合絵!」 直之が叫ぶ。「早く出ろ!」 数回のコールのあと、ようやく百合絵が通話ボタンを押した。『もしもし、直之さん?』「百合絵!!」 繋がった!! 直之は身体を前へ乗り出した。「今すぐ瑠理子に代われ!」『ええ』「全部見てる! 配信も!」『そうなのね』「百合絵! 聞いてるのか!?」 妙だった。 百合絵の返事がまるで自分とはまったく別の会話をしている。『……そう』「は?」 百合絵は周囲を気にするように、わずかに声を潜めた。 しかし、令嬢たちには聞こえる程度の声で言った。『分かったわ、直之さん』「何が分かったんだ!」『やっぱり、そうだったのね』「百合
『じゃあ、かけるわね』「やめろ、百合絵!」直之の叫びなど届かない。 百合絵の指が、瑠理子のスマートフォンの画面に触れた。『御堂直之』と、確かに自分の名前が表示されている。 百合絵が通話ボタンを押した。 プルルルル―― 呼び出し音が会場に響いた。「……っ!」 直之は思わず、自分のビジネスフォンを握りしめた。 当然、鳴るわけがない。瑠理子に教えた番号は、今朝、自宅へ置いてきたプライベート用の端末だ。 今頃、誰もいない部屋でスマートフォンだけが鳴り続けている。 瑠理子が、百合絵の手にあるスマートフォンをじっと見ている。 プルルルル―― 一回 二回 三回「違うんだ……!」 直之の額に汗が滲む。「その電話はここにないんだ!」&n
「この車、反対車線に出せないか!」直之が怒鳴った。 「無理です!」 運転手も必死だった。 「中央分離帯があります。それに、この先は事故処理のため警察車両が道路を塞いでいます!」 「なら脇道は!?」 「そこへ出るまで動けません!」 「くそっ!」 直之は窓の外を見る。 どこまでも続く車列。誰も動かない。クラクションばかりが虚しく鳴っている。 普段なら、どうということもない距離なのに。 今は果てしなく遠かった。『私は知ってるわ!』 タブレットから百合絵の声が響いたので、直之は即座に画面へ視線を戻した。 『子どもの頃から、ずっと直之さんを見てきたの!』 「……」 確かに百合絵は自分の後をよくついてくる子だった。懐いてくれているのだと思っていたが―― 『直之さんが何を好きで、何が嫌いで、どんな女性が苦手なのかだって知ってる!』 「そんなの知らないだろ……」 直之の眉間に皺が寄る。 苦手な女性の話など、百合絵にした覚えはない。
「……やっぱり、君か」直之の声が低くなる。 百合絵は床に散らばった二つの宝飾品を見下ろし、悲しそうに眉を寄せた。『瑠理子ちゃん、どうして……こんなことしたの?』『してないわ! 私じゃない!』『分かったから、落ち着いて』「落ち着くのは百合絵、君だ……!」 直之が吐き捨てる。 この状況で大勢に囲まれ、ワインを浴びせられ、持ち物を勝手に漁られ、盗人扱いまでされている瑠理子を庇うこともしないなんて! 百合絵が瑠理子を陥れた犯人なら、わかる。 直之は防犯カメラのデータにアクセスした。 録画データをAIに解析させ、瑠理子のバッグに近づき、ブローチをふたつ入れた犯人をあぶり出す指示を出した。『私ね』 百合絵は瑠理子へ一歩近づいた。『あなたのこと、最後まで信じたかったのよ』『……』『この前は私も取り乱したわ。直之さんとのことを聞いて、ショックだったから』 まるで自分の方が傷つけられた被害者のような口調だった。『でも、今日は瑠理子ちゃんを受け入れようって思ったの。なのに……』 百合絵はダイヤのブローチを見る。続けて御堂家のカメオへ目を落とした。『こんなものまで盗むなんて』『盗んでない!』『まだ言うの?』 百合絵の声音が固くなった。『あなたのバッグから出てきたのよ』『誰かが入れたの!』『誰が?』『それはわからないけど、私は盗んでない! 人様のものを盗るほど落ちぶれていないわ!!』『いま、落ちぶれてるじゃない』 くすくす、と周りから失笑があがる。 すべて、ここにいる全員が海原百合絵の味方だ。「瑠理子は嵌められた側なんだぞ!」 画面の向こうでは百合絵が小さくため息を吐いた。 直之は彼女の一挙一動にいら立ちを覚えた。『瑠理子ちゃん』『……』『もう認めたら?』『何を』『全部』 百合絵の口元が僅かに歪んだ。『直之さんに選ばれ、御堂家の人間になりたかったから、偽の招待状まで作ったのね』『違う!』『ここまで勝手に来て』『私は呼ばれたの!』 百合絵は床のカメオを指差した。『それなのに、御堂家のものまで盗んだ』『違うって言ってるでしょう!』 瑠理子の声が震える。 悔しくて 怖くて それでも必死に声を張っている。 まだ、たった十八歳の少女が、悪意に晒されながらも無実を訴え素姿に、直之の胸が締めつ
しかしいくら直之がここで瑠理子を信じていても、画面の中の令嬢たちは違った。『この盗人!』『あなたのバッグから出てきたじゃない!』『最低!』『警察呼んだ方がいいんじゃない?』「やめろ……」直之の喉が震えた。 瑠理子が置かれた状況を考えると、胸が痛む。「まだ連絡はつかないのか!」 だあん、と車のドアを拳で叩く。運転手は「申しわけございませんが……」を繰り返すだけだ。 画面の中は刻一刻と進んでいる。『違うわ! 私じゃない! 私は人様のものを盗ったりしないわ!!』「わかってる!」『誰かが入れたのよ!』「ああ、そうだろう!」『信じて!』「信じる!」 画面に向かって叫んでも、会場の令嬢や瑠理子には届かない。 どれだけ答えても、瑠理子には聞こえない。 それがたまらなく悔しかった。「僕は君を信じてる!」 声を張り上げる。「だから……そんな顔するな」 瑠理子の目が少しずつ潤んでいく。 直之の胸が締めつけられた。「泣くな……」 拳を握る。「頼むから、泣くな……!」 しかし追い打ちは終わらなかった。『待って』 誰かが声を上げる。『もうひとつあるわ』「……?」 カメラが床へ向く。 ダイヤのブローチの横に、大ぶりなカメオ。「……!」 直之は息を呑んだ。 これは、御堂家が今回の慈善オークションへ提供した、アンティークの







